2桁、3桁の数字の違いは許容の範囲です

そうですよね、3千人、3万人、30万人なんて大して違いませんよね。

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070226/p2#c1172559471

# kaetzchen 『私は「日本史の方法論」は分かりませんが,少なくとも「史料」そのものが生きた祖父だったからには,文化人類学的方法論にて,無文字史料を使うしかないのではないでしょうか?

皆さんの話を聞いていると,文書になった「史料」以外は信用できないと言う傲慢な態度が見え隠れします。私はずっと理科で通してきたため,ホモ・サピエンスという類人猿が「文字」を持った時点ではなく,「言語」を持った時点で「史料批判」が可能な人類学や民俗学の方法論を優先しています。

従って,皆さんの指摘は「ああそうですか,それが何か?」程度にしか聞こえませんし,単なるあらさがしにしか考えておりません。あしからず。生きた証人の遺言がたとえ誇張されたものであろうと,物語の中に含まれた「謝罪の言葉」を最優先に考えるべきではないでしょうか。数字が多少違おうと,2桁や3桁は許容範囲の中です。私の専門で言えば白血球の数のようなものですな。』 (2007/02/27 15:57)

      • -

# nomisuke 『>kaetzchenさん
「あらさがし」とは随分な言い様ですね、ですが、歴史の方法論とは、記録や証言の細かい所を一つ一つ検証し、それを足がかりにしてまた検証していく、そういった作業の繰り返しですから、「あらさがし」した集大成が歴史と言えるかも知れません。
kaetzchenさんの挙げた証言は尊重しますが、「あらさがしで検証された歴史」には反しています。枝葉末節ではありません、全てが噛み合わないのです。
ご自分の挙げた証言を事実だと信じられるのであらば、「傲慢な態度が見え隠れします」「ああそうですか,それが何か?」などと揶揄するよりも大事な事があるのではないでしょうか?

あなたの仰る「文化人類学的方法論」とは浅学な私にはさっぱり理解できませんが、「無文字史料を使う」ことは証言を検証無しに信用することでは無いでしょう。
理科を学ばれたのでしたら尚更、観念が先に立った決め付けばかりでは無く、倫理的思考と検証を重視されるべきです。

PS:この問題で扱われる数字は犠牲者の人数であり、「数字が多少違おうと,2桁や3桁は許容範囲の中です。私の専門で言えば白血球の数のようなものですな」ではあまりにも不謹慎に過ぎます。
他者の心を踏み付けにするような事はお控えください。』 (2007/02/27 18:01)

      • -

# Apeman 『nomisukeさんのご指摘でほぼ尽きていますが、問題になっているのは「非文書史料の価値」ではなく証言史料に対するkaetzchenさんの態度なのですよ。

>文書になった「史料」以外は信用できないと言う傲慢な態度が見え隠れします。

非文書資料を信用しないなどといった態度を私がとっているかどうか、ここをご覧いただいている方にはおわかりいただけるでしょうからあえて反論もしません。

>「言語」を持った時点で「史料批判」が可能な人類学や民俗学の方法論を優先しています。

しかしあなたは「史料批判」をしていないじゃありませんか、と指摘しているのです。「Aという人物がPと証言した」ことが事実だからといって「Pである」ことが事実になるわけではありません。そして

>物語の中に含まれた「謝罪の言葉」を最優先に考えるべきではないでしょうか。

とおっしゃるならば、それにふさわしい紹介のしかたがあるはずです。』 (2007/02/27 18:25)

apeman氏の「両サイド」に対してのご苦労、、、、お察しします。。。