戦艦大和:往復分の燃料を積んで出撃

朝日新書反戦軍事学」を読む〜戦艦大和編〜
http://obiekt.seesaa.net/article/37212670.html

94ページで戦艦大和の最後の作戦について語られているのですが、『片道分だけの燃料を積み』とあります。しかし実際には連合艦隊参謀・小林儀作大佐の手記によれば、上層部の黙認という形で本来の命令書に反し、往復分を軽く上回る4000トンの燃料を大和に積み込ませた事が判明しています。

あ、そうだったんだ、、、片道燃料で出撃、というのをずっと信じてました。

http://www.biwa.ne.jp/~yamato/yamato.htm

連合艦隊参謀海軍大佐小林儀作氏の手記「戦艦大和の沖縄突入作戦について」

戦後刊行された幾多の戦記書には戦艦大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄突入作戦の時は、燃料は沖縄に着く迄に必要なものだけ積んで、内地に帰還するに必要な燃料は積まなかった。『片道航海』『武人の情けを知らぬ無情の海軍』として世人の謗りを受けているのですが、この作戦の時の燃料補給は、片道分だけではなく、往復に必要な分を搭載した事実を明らかにして世人の誤解を解きたいと考えます

私は昭和17年11月軍令部々員兼大本営海軍参謀に任命され勤務して参りましたが、昭和19年3月聯合艦隊司令長官古賀大将以下幕僚の大半が戦死し、聯合艦隊司令部が殆ど壊滅しました為、その再建のために昭和19年4月30日聯合艦隊参謀に補せられ、旗艦大淀に乗艦し、主として補給の業務を担当しておりました。

ご存じの様に昭和19年6月19日発動しました『あ号作戦』(サイパン作戦又はマリアナ海戦)及び同年10月24日発動した『捷号作戦』(レイテ作戦)も敗北に終わり、大半の艦艇は損傷し、艦隊を以てする作戦は終了しました。残存の軍艦は、敵の空襲を避けるための迷彩を施し、軍港々外その他に避泊して居た時に『天号作戦』即ち戦艦大和以下を以てする沖縄突入作戦が考えられました。

聯合艦隊司令部の首脳者は、本作戦に関し、軍令部と種々協議しましたが、軍令部は本作戦に関し極めて消極的でありました。即ち、『現在日本国内の燃料貯蔵量は極端に逼迫しており、物資輸送する船艇につける護衛艦の燃料も十分とは云い難い状況にある。従って燃料は極端に節約しなければばらない。又、本作戦を考えてみると敵の制空圏下にあるため、その下での艦隊行動は極めて危険である。又、たとえ沖縄に突入し得たりとするも、その生還は期し難い。強いて本作戦を強行する場合に於いては、燃料を片道分しか渡せない』との強硬意見である。

早速聯合艦隊司令部では作戦会議(幕僚全部出席し主務事項以外の事でも意見を述べる)が開催され、活発な意見が開陳されました。
 ・敵の制空圏下、又、敵潜水艦の跳撃しておる海面での艦隊行動は、無謀であり沖縄突入は難しい。無理な作戦である。
 ・港内に避泊して徒に敵機の襲撃を待つよりも日本海軍の名誉にかけて沖縄に突入せしめ、その最後を飾らしめるのが武人の本懐である。

等の種々論議がかわされましたが、唯『たとえ生還の算がなしとは云え燃料は片道分しか渡さないと云うのは武人の情にあらず』と大半の幕僚は本作戦に反対意見を開陳しました。聯合艦隊司令部首脳は、種々苦慮された様です。 即ち、『本作戦の成功の算は極めて少ない。併しながら、今海軍部内全般に亘り【海軍航空部隊はじめ全軍特攻として死闘を続けているのに水上部隊のみ生き残って拱手傍観して居る。皇国存亡のとき、之をしない法があるか。】等の気分が横溢している事も考えられた結果、聯合艦隊首脳部は本作戦を決行することに決定し、昭和20年3月20日大海指令命令作戦が発令されました。

本作戦命令を第二艦隊司令長官伊藤整一中将に伝達の為、聯合艦隊参謀長草鹿竜之介中将が軍艦大和に行かれることになったので、私は補給関係の援助をする為に是非一緒に行かせてほしいと随行をお願いし、艦隊付属の飛行艇で瀬戸内海の柱島に行き、4月2日停泊中の軍艦大和に乗艦しました。

大和乗艦後、直ちに幕僚室に行き、第二艦隊機関参謀松岡茂大佐に会い、『今回の出撃の為の燃料補給は聯合艦隊参謀である小林大佐が直接行うから一任してほしい』と告げ、その了解をとりつけた後、直ちに高速艇を用意して呉鎮守府に行き、幕僚室に居る呉鎮守府機関参謀今井和夫中佐に会いました。

「おい、今井君。今貴様の所では帳簿外の重油は幾許あるか。私は元海軍省軍需局に勤務して居た時、出撃準備計画を担当して居り、又軍令部参謀もして居たので、全海軍の重油タンクの状況はよく知って居る。呉鎮守府傘下は一番重油タンクが多いので、相当タンク内に残って居る筈だ。これらの未報告の帳簿外の重油が4〜5万屯はあると思っているがどうか。無理かも知れないが、この帳簿外の重油の一部を俺に呉れ。」

「小林さん、一体どうしたのですか。藪から棒のお話、訳がよく解りません。勿論帳簿外の重油は相当量残って居ります。事情を説明して下さい。」

と云う次第で、私は大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄突入作戦の決定迄の経緯を詳しく説明し、「たとえ生還の算少ないとは云え、燃料は片道分だけしか渡さないと云うことは武人の情けにあらず。往復の燃料を搭載して快く出撃せしめたい。今回無理を云って聯合艦隊参謀長に随行して来た私の目的は、唯この一点だけである。聯合艦隊参謀と云う公職で頼むのではなく、小林大佐一個人の懇願なのだ。」

と話たる所、今井参謀も之を快諾す。

実施方法は次の通りにする。
1 各艦に往復燃料を補給する。然し聯合艦隊命令で重油は片道分のみ補給と命令されているので、片道分は帳簿外燃料より補給す。(タンクの底の重油は在庫として報告してない。之等を手押しポンプで集めれば、沢山となる。これが帳簿外重油
2 補給船には往復燃料を搭載する様に命令する。上司報告(求められた時のみ)には片道分の重油搭載を発令したが、積み過ぎて余分を逆に吸い取らしたが、出撃に間に合わないのでその様にした

依って直ぐ今井参謀と一緒に上司である呉鎮守府先任参謀井上憲一大佐、参謀副長小山敏明大佐、参謀長橋本少将に報告して承認を得る。直ちに高速艇に飛び乗り、柱島停泊中の大和の帰艦し、松岡第二艦隊参謀長及び先任参謀山本祐二大佐に詳細報告せる所、非常に喜んでもらへえた。今井参謀は直ちに呉海軍軍需部長に命令を出し、各艦に重油搭載を命ず。重油搭載は呉及び徳山(駆逐艦の大部)で行われましたが、各艦の重油搭載量は次の通りです。

旗艦大和4000屯
第二水雷戦隊旗艦矢矧1300屯
第4駆逐隊、第17駆逐隊、第21駆逐隊 満載
 合計10500屯

第二艦隊(大和、矢矧、駆逐艦8隻)は、昭和20年4月6日1520、瀬戸内出撃し、豊後水道を通り鹿児島沖を西行し、次で南下し沖縄沖に向かったのですが、4月6日21時、豊後水道で敵潜水艦に発見され、その後敵機の追従を受け、4月7日正午頃から敵飛行機の大攻撃を受け、部隊の殆どは壊滅致しました。

本作戦に於いて駆逐艦が4隻生還している。駆逐艦はタンクの容量が少なく、航続距離も出ない艦であるが、無事生還して居る。片道分の重油では生還は出来ない。往復燃料を搭載したことの何よりの証拠である。 これは正式に残っている文書は全然なく、戦後刊行物、幾多の戦記書に『片道航海』『無情の海軍』との謗りを受けておりますが、事実は以上の通りであります。之が証人たる今井参謀及び松岡参謀も今は世に居ない。生き残れる唯一の証人として私が以上の事実を申し上げた次第であります。

連合艦隊参謀海軍大佐小林儀作氏の手記より (2004.1.2更新)